Dugup?編集部が尊敬する、ペンネーム Nda Ha Satomohiさん、あゆみさん、ん村さくらこさんからご寄稿いただく形で新シリーズの連載をスタートします!混沌を増す現代社会、思考の扉を開くのは今です!是非ご一読ください!
ところで、構想といえば、
Nda:ところで、翁は「構想」とか「構想力」という人間の営みにたいそう関心をもってきたのだけれども、構想と聞くと、それはどのようなことがらだと思いますか?
あゆみ:計画よりもっと夢があるものですが、ただのイメージではなく、現実性をそなえた骨組みを持つものだと思います。
Nda:なるほど、このことばがもつ「構」の意味あいを考えれば、「現実性をそなえた骨組み」という見方は的を射ていますね。構造とか構築、機構といったよく用いる一連のことばの指示対象に通底するところから推察すれば、「構」に骨組み、フレーム、あるいはそれらを構えるという意味をよむことは自然なことに思えます。するとまずそこには曖昧な幻のような像ではなく、なにかまさに骨のあるかたちを想定しているわけですね。
そのうえでそこに「現実性をそなえた」という制約をつけているわけですが、ここが構想にとってまずひとつの焦点になると思えます。
翁は「構想」という営みが想像のなかでも特殊な部類に入るそれである、と考えています。まさにその特殊性ゆえにこの構想に魅力を感じ、関心を寄せてきました。
どのように特殊かというと、想像の一般的な性質として、空想とか夢想、理想、連想など多くの想像に共有されている性質は、それがこころ、あるいはおそらく頭のなか※での活動としてあり、それで完結できるということです。
※ふつうここは「こころのなかで」もしくは「頭のなかで」とだけいいますが、翁は頭とこころを一致するもの、ないし換言とはとらえていないため、このような言い回しをしたくなります。とりあえずどちらか、あるいは重なり合うところで、といった意味にとってくだされば結構です。文章が進んでいくにつれて、このような表記が煩雑に思われることもあるでしょうから、これからはそのときどきの文脈に応じてどちらか一方で表現します。ただ翁はこのようなこころもちにあるのだとわかっておいていただきたいです。
いまみなさんが翁の話を聞いていて、あるいは読者がこの文章を読んでいて、そのそばからいろいろなことをこころに、頭に思い描いていることと思います。そうしたイメージは「現実性」という点では、どのような性質のものでしょう ?
現に実際に思い描かれていることはあきらかで、そうでなければ、この会話はつづかない。とくにこのような対談や鼎談では語りを滞りなく成立させるために、頭のなかでのイメージ喚起は普段の状況よりも注意水準も高いなかで、ずっと盛んになされていることでしょう。だから、それらの想像、これは「考える想像」という意味で「考想」ということばが当てはまるところですが、その考想の現実性はきわめて高くあきらかといえるでしょう。
でも、これはかの陽明学の話も連想されるところですが、その頭なりこころに豊かに立ち現れ、描かれる像、ことがらは現実なのか、その内容だけでなく営み、活動、もっといえば行為も含めてその現実性はどの程度、高く、明白なものといえるのか。そう問うとすこしあやふやになってきます。
あゆみ:ちょっと待ってください。思い描いたことの現実性はあきらかなのに、その現実性は疑わしいとは、矛盾していませんか。
Nda:はい、まさによいところを指摘くださいました。その問いを発してくださったことは、まさにいま翁が話していることをあゆみさんが注意深く聞き取ってくださり、頭のなかで概念の論理やその種のイメージを組み立ててくれていたからこそのことで、その表象行為の現実性はあきらかに高いものであったといえるはずです。ただ、その「現実」ということの条件にこだわると、ひとつのだいじな性質を欠いているため、現実性は高くてもその高さは中途半端といわざるをえない。
あゆみ:というと、、、。
現実性の高さ
Nda:「頭のなかで想像されたことの現実性があきらかに高かった」という判断の表現が過去形になっていることに注意してください。想像一般の性質はその行為をしている当事者以外にとっては常に過去形としての現実にならざるをえない。「それは現実に生じたこと、起きたこと」として語られるものごとです。それらはいかに現実性が高いと評価できても、この現下でそのありようを知覚的に、経験的に、もっといえば主客一体としての純粋経験としてはもてない。
ですから、「現実」、すなわち現に実の際に立つとか、実の際に現れていることが確認できません。そのために頭のなかに描かれたものごとが現実の性質としてどんなにあきらかで高く思えても、現実性という点でいえば、いわば二級品になる。なぜ、二級というのかといえば、たったいましがたのことといえども、それを振り返って想起ないし推定せざるをえず、現の実のありようと比較すれば、必然的に鮮度が落ちるためです。
よりわかりやすくいえば、談話の状況でいまのあゆみさんとのやりとりで得た経験、つまり翁の話していることを注意深く受けとめ、その筋なり論理を追って思考を巡らせていたということは、あゆみさんによるあとからの発話内容をとおしてだけわかるのであって、「ああ、ちゃんと聞いていてくれている」という了解は実際にあゆみさんの頭のなかで現にいま展開されている想像を確認しながらわかることではない、という、あたりまえのことをいっています。
他者が考えていることがすべて聞こえてしまうといったファンタジーの設定がありますが、そもそも頭のなかで考えていることは決して理路整然としたものではない。そのことからすれば、想像の丸出しはただの混沌でしかなくなることは容易に想像できますが、その内容は別として、そうであれば、その想像はまさに現実そのものとして確認できます。けれども幸か不幸か現実にはそうなっていない。だから、わたしたちはものすごく安心して、どんなときもいろいろなことを考えているし、そうしていられる。
でも、他者とのやりとりではその秘匿されているところがわからないだけに、つねにもどかしいですね。コミュニケーションというのは意図のあるなしにかかわらずその隠されているところを探りながら、もっといえば、探るために、ときには酒の力を借りたりして障壁を取り除きつつおこなうようなものですね。それは言い換えれば想像、こころに抱いていることの現実性を共有し、その共有度を高めようとする営みということになりそうです。
あゆみ:それでわたしが冒頭に「構想」をどのように捉えているか、という問いに「ただのイメージではなく、現実性をそなえた」と返したことの「現実性」について、すこしこだわって確認したというわけですね。
特殊想像としての構想の特殊性
Nda:そうです。構想という行為は想像の範疇としては「特殊想像」の部類にあるといいました。それは「想像一般」と違う構想の特殊さは高度な現実性を備えたというより、もっと直に、まさに現実に姿をあらわす想像、「現に」いま立ち現われる想像としてあるからです。
他者からすればなにを想っているのかわからない、という想像の常のなかにありながら、「これがその想っていることだ」と、客体としてあらわにするのが構想です。構想はとりあえず他者と共有できる想念、その像を実の際につくりだす「行為」ということです。
これは単にそういってしまえば、取り立てていうほどの特殊性ではないように思えてしまうけれども、想像一般がそれぞれの主観のなかで閉鎖されていることからすれば、構想はその界域から外に踏み出してかたちをあらわにする営みとしてあり、想像一般に共有されている規範があるとすれば、まさにアウトロー、その位置づけは異端、特殊です。それだけにまたその特殊なありようを可能にしていること、すなわち構想力という力には魅力を覚えざるをえなくなります。ただ、いまは話題の焦点がずれますから、とりあえずその魅惑の力のことは脇においておきましょう。
さくらこ:構想力という力についてはカントも三木清も哲学の主題に据えたと聞いています。この対話のなかでぜひあとで聞かせてください。
Nda:はい、もちろん。それは象徴国家論というこの対話の旅を牽引していく力でもあるので、どこかでしっかりとみつめる機会が必要になります。
ところで、想像一般は確かに豊穣な精神世界としてひとつの王国をつくりあげているといってもよいほどだと思います※が、それがどんなに色とりどりで、壮大であろうと、想像する当人の頭のなかで描かれるものだから、そのかぎりでは他者にとってはまったくの空虚、虚ろです。だからその現実性には他者との共有を前提とする社会性が欠けている。
※たとえば、半田智久2013『構想力と想像力』ひつじ書房、では一般に辞書にとりあげられる日本語に34種類ほどもの想像があることを記しています。英語をはじめとする欧州語には構想をはじめそれぞれに対応する単語がありません。たとえば、日本人なら学校経験をつうじて誰もが馴染んでいる感想ということばにしても、これにあたる英単語は? といわれると誰もが戸惑うはずです。文化相対主義的な観点に立てば、想像表現の多様さは日本の文化やその背景にある風土や習慣、精神性、とりわけものの見方、思考の特性が色濃く映し出されているところかもしれません。
当人にとってはどんなにリアリティがあろうとも、アクチュアルではない、といえます。ここでいうアクチュアル(actual)とはアクト、活動に結びつかないということです。その活動とは読んで字のごとしで、運動が活きるという意味あいですが、他者はもちろん想像する当人にとってさえも活きてこない。
いまいったことにはすこし注意深くありたいですが、この社会性の欠如としていう他者とは一般他者はもちろん、そればかりか想像する当人にとっても想像とは別様の身体運動に展開する活動をする当人という他者も含んでいます。
とても妙な言い方に思われるかもしれませんが、自分がまさに心身二元論的に単なるこころの自分と、身体の他者に分かたれたかのようにイメージしています。不思議なようではあるけれども、実際にそうなっているかどうかは別として、「頭ではわかっているのだけれども、なかなかできない」とか「こころのなかではそうしたいとは思っているのですが」などということは、日常ごくふつうの実感としてあると思います。それだけにそんな発言に出会っても、わたしたちは「そりゃたいへんだ、急いで精神科にいったほうがいいよ」などといわず、当たり前にあることと受けとめるはずです。頭のなかでの自由性とそれを行動に移すことの不自由性、それはある意味で、「目標や計画を立ててその通りにものごとを進める」といった今日的なお勧めと合致しないところもあるわけですが、日常認識としては自然、まさに常識ということになるでしょう。
リアリティとアクチュアリティという現実性
だから、頭のなかのリアリティ(reality)とその当人の他者といってもよい自身の認識可能な身体活動を含んだアクチュアリティ(actuality)の現実性を、まずは峻別して捉えることは、想像一般と特殊想像としての構想の理解、そして常識感覚にある「わかっているけどできない」という課題の乗り越えのためにもだいじな認識になるわけです。
この二相のモードとしてある「現実性」をあいまいなままに語っていると、想いがかたちになっていくさまのアクチュアリティとしての構想を語っているのか、そのことはともかくリアリティ豊かに物語りを想像しているさまを語っているのか、たとえ自分自身の営みのことだとしても不明瞭のままに誤解の種まきをするようなことになってしまいます。
さくらこ:かたちになっていくものか、それとも物語の範囲のものか、を分けるというところでわからなくなったのですが、「物語」も具体的にかたちになったもの、またはなりうるものではないですか?
Nda:ちょうどよいところを指摘してくれました。これから話さねばならないと思っていたことにつながるので、とても助かる問いです。
まず確認ですが、いまここでの会話は、話しことばを使ってやりとりしています。だから、翁がかたちにしたものと、単なる想像に想いをめぐらせる物語りを分けたことについて、その発話した「ものがたり」の指示する対象について誤解が生じたのだと思います。
ですが、こうして書きことばとして文章にすれば、翁の発言では「物語り」であって、さくらこさんの発言では「物語」であったことがわかります。それによっておなじ発音でも両者の指示する対象は異なっていたことがはっきりします。さくらこさんの「物語」は『源氏物語』とか『ナルニア国物語』のような標題の文学作品としてかたちづくられたまさに構想の結晶を想定されたそれとして連想されています。だから、それは歴然とした「かたちあるもの」のはずだと思われたのでしょう。
それに対して翁が発言した「ものがたり」は「物語り」でした。送り仮名つきで「ものごとの語り」の短縮、しかもそれは語りとはいっても指示していた内容は頭のなかに思い描かれた想像についての語りのことでした。まさに想像一般としての「物語り」のことを指していっていました。
だから、その「物語り」はまさに白昼夢のように、そこにすっかり没頭するほどのリアリティがあったとしても、他者がその最中を共有できないため、アクチュアリティとしての現実性が乏しいままの状態です。
リアリティとアクチュアリティの混線をあらわすよい例として、多種多様な想像のなかでも「妄想」という想像分類があります。これは若い皆さんが普段の会話で使う「妄想」とは異なる、一線を超えてしまった特殊な部類の想像ですが、どういう点で特殊かといえば、想像のリアリティがそのまま当人にとってアクチュアルな現実性をもってしまうという点においてです。言い換えると、リアリティとアクチュアリティを分ける一線が溶けている状態。だから、自分は神だと想像し、まわりのひとも同様に認識していると思い込める。そのため社会的には困難を抱えてしまうので病の分類に入り込んでしまう。
これとよく似ていて非なる、一般的な想像の範疇にある想像が幻想です。これは幻として知覚することがらがあり、それがどんなにリアリティ豊かに知覚できても、当人はアクチュアルなものとしては十分な疑いをもっている。だから、その疑いがほとんど消えてどうみてもアクチュアルなものと思わざるを得ないところまでいくと、夢オチになって目が覚めるといった具合になります。
横道に逸れましたが、創作の世界や、あるいは報道のような現実を伝える仕事でも昨今はとくにリアリティを追求し過ぎているように感じます。その結果として、それをアクチュアルなものとして、あるいはアクチュアリティの高いものとして勘違いすること、させてしまうことがテクノロジーの発達もあってだいぶ増長してきています。今般の感染症騒動などはその典型だったと思います。そのため、このようなリアリティとアクチュアリティの区別の意識化はきわめてこんにち的なテーマでもあるわけです。
あゆみ:現実をありのままに伝えるという作業がたとえば、リアリティの質を可能なかぎり高めることに努力してそれを実現できたら、アクチュアルなものになるとはいえないでしょうか。それが誰かの頭のなかの想像の世界のことではなく、ジャーナリズムの活字や映像をとおして現実を伝える仕事のなかでの話しとして。
Nda:現代のわたしたちの現実を構成するうえでジャーナリズムの果たしている役割や影響度の強さからいって、とてもだいじでそれこそアクチュアリティの高い話しなので、ぜひ十分深めたいところです、しかしいまその話しをすることは大きく迂回路を経ることになるから、ジャーナリズムとアクチュアリティの関係については、あとで検討したいと思います。書き留めておいて、ここぞと思うところであらためて指摘してください。
いまはリアリティとアクチュアリティを隔てる線を、しっかり確認しておきたいと思います。同じ現実性、あるいは現実感ということばで表現されうるリアリティとアクチュアリティの違い。それを一方にあって他方にないことで考えてみると、どうでしょう。
バーチャル、すなわち事実上の世界とは
あゆみ:たとえば、バーチャル・リアリティということがあると思いますが、それがとてもリアルであるとして、それが同時にアクチュアルといえるかというと、疑問に感じます。なぜか、と問えば、いまそのリアルが現実の物質的な存在としてあるのか否かなのかな、と思えますが。
Nda:なるほど。この考察を進めるうえで、よい事例ですね。バーチャルなリアリティ、このことばが前世紀の後半に輸入されたとき「仮想現実」という訳語があてはめられて、長くその訳語が通用してきました。そういうことでは仮想という仮置きとしての想像という範疇に立っての現実感なり現実性を、このことば自体が語ってしまったことで、そこからなかなか抜け出せないという制約を抱えてしまったのだけれども、この点は最近では見直されてきてvirtualには仮想という意味だけでなく、事実上の、という意味もあるのだから、むしろバーチャル・リアリティという概念で示したいことは「事実上の現実感」「事実上の現実性」ということではないか、という認識が広まるようになりました。
そう解釈するとこれは質的にだいぶ違ってきて、「事実上の」つまりデファクト(de facto)が、くせ者でミソになってきますね。これで思い出すのがデファクト・スタンダード、とくに技術革新が激しい業界で語られる「事実上の標準」です。この業界とはふつう工業の世界を指しそうですが、実際はここに商業の世界ががっちりと組み合っています。事実上の業界標準を決定するのは市場における商いのマターだということですね。だから、純粋に工業の世界の技術水準ということでみればもはや標準とはいえなくても、つまり一時代前のものや端から低劣なものでさえ市場では標準になってしまっているということが生じてくるし実際に生じたきた。エンジニアリングの世界からすれば、それが発展のうえでの阻害要因になるということもある。そうなるとエンジニアはこのリアリティに頭を悩ませ、アクチュアルにしたいことができにくくなるといったことが、一方で製造、他方で販売を抱える企業の論理のなかではいくらでも発生してきます。技術を命とする工業の世界が商売の精神と手綱の引っ張り合いをせざるを得なくなるというのは不幸な状況です。その不幸はついその売れているものを買って商いの手綱のほうを引くことにそれと知らずに加担する消費者が招いているということにもなるわけですが……。
市場競合とか占有というのはそういう点できわめてバーチャルな、つまり事実上のリアルが展開する場であって、占有が成立してしまうのは商品の売り方とともにそれに応じてしまう購買者の協力関係がある。技術開発の立場からすれば、それは共犯関係とさえいえることです。その関係は広告宣伝による豊穣な空想世界の展開と、どうもこれを買っておくのがよさそうという憶想の世界でできあがる。つまり市場は、まったくの想像世界のなかでの振る舞いがそのまま表出しがちな世界になっている。
もっともそこではもともと消費行動と呼ばれることが展開するのだから、もとより消えてなくなるうたかたなその営みは、アクチュアルな現実世界というよりリアリティ豊かな「事実上の現実世界」の営みと相性よく成り立つともいえる。だから、素材や設計図を抱えて、よりすぐれたものを、と思っている人たちのアクチュアリティからすれば、まさに異なる現実によって現実が引き裂かれているように感じざるをえないというところでしょうか。
そういうことでリアリティとアクチュアリティという二相の現実のそれぞれを彩るものは何かといえば、リアリティの豊かな「虚」、アクチュアリティの確かな「実」というようないい方ができそうです。そして前に、その二相の現実に引き裂かれるといった表現をしましたが、それはそのように異質な二相の現実を抱えて生きるわたしたちが、あえて引き裂いてみてしまうこと、その余計なことをしてしまうことで生じることであって、ふつう自然にはその二相の現実のなかに、わたしたちは生きている、あるいは引き裂いてみても結局、二相の現実なかに生きざるをえないというところがひとつの現実の姿なのだ、と了解すべきことなのだと思えます。般若心経が色即是空、空即是色を語るのも、近松演劇の真(まこと)が虚実の皮膜にあらわれるとするのも、そういう現実のありようやその表現を語るものといえそうです。
さくらこ:そこでもう一度、構想に戻りたく思います。これまでのところで、頭のなかで描かれる想像のリアリティと、頭の外に具体的な身体表現としてかたちを為していく構想のアクチュアリティという現実性の二相のありかたが、よくみえてきました。
ところで、その構想という具体的な身体表現ですが、それはこのような会話の「話しことば」もそのひとつですね。また、この会話を記録して残し、いままさに読者が読んでいらっしゃる「書きことば」も、そのひとつですね。この両者をアクチュアリティという観点でみると、どういうことがいえますか。たとえば、どちらも同じ性質の現実性をもっているとみなしてよいと思いますか。
三相の現実性のなかで
---次回(2)につづく
プロフィール
Nda Ha Satomohi
太平洋戦争敗戦から十数年が経ったころ、この世に生を享けた。その経緯から、どうも南方戦線あたりで死にきれずに彷徨った学徒の英霊がやっと故国にたどり着き転生したのではないかという思いを胸の内のどこかに潜ませて生きてきた。それなのに高度経済成長の時代に少年期を過ごしバブルに興じて甘すぎる人生を歩んできてしまったことへの自戒、その人生晩期に至り、いったい自分はなにを学びえたのか、同時にその黒板を背にしてなにを伝え論じられえたのか、とより深い自省の念にかられ、これからの人たちのためのこの国について、あの原アフリカへの憧憬とそのパワーを借りた化身となって、ここにその構想を語るものなり。
あゆみ
みたいものと足元のバランスをとるのがまだむずかしいお年頃の20歳。
活と殺、エゴとアガペ、最低と最高が同居し手をつなぎ絡み合うエロという動的分野において森羅万象を探求し、そのような対概念の結び目をいろいろなところでちょこっと現前させてゆくことが目標。
ん村さくらこ
日本のとあるユニークな自治地域*ん村*にて誕生。大学進学のため、日本の中枢都市「東京」へと上陸したが、そこでさまざまな衝撃を受ける。極めつけはNda翁、あゆみさんとの出会いである。Nda翁の「象徴国家論」に強く共鳴しているが、それは「生きるということは藝術そのものである」と感じられる世を創りたいという思いに端を発している。